2024年1月本が完成し、一部の書店とAmazon.co.jp販売中です

※ 石﨑家は"10代続く医者家系"として、2023年12月1日放映のTBS特番「いくらかわかる金?」に登場!


栃木県壬生町で260年、医家10代の石﨑家。

石﨑家に保管されている史料のうち特に興味深いもの218点と関連史料37点・関連時事を加えて掲載。

医師を10代つないだ石﨑家の史料とそれぞれの時代の記録です。

 

A4判 136ページ

監修:石﨑道治

著者:石﨑道治 阿美智篤

発行者:阿美智篤

出版者・発行所:しゃしんや あみ

0282-51-1155

 ISBN:978-4-9913392-0-2

©︎2024 石崎道治 阿美智篤 しゃしんやあみ

 

価格:税込¥3,300.(本体価格¥3,000.)

発売:2024年1月

販売所:

・いずみ書房 様(壬生町)販売中!

・獨協メーディカルサービス 様(壬生町北小林 獨協医科大学病院1階売店、同アメニティ棟2階タリーズコーヒーの『DMS Store』にて販売中!

・廣川書店 様(壬生町北小林獨協医科大学内)販売中!

・しゃしんやあみ(壬生町本丸2)販売中!

Amazon.co.jp販売中!

※販売店募集中。

 

ー 情報は確定次第随時更新します ー

ー  2024年1/19更新 ー


本誌作成の経緯

 

 2012年、壬生町の獨協医科大学で行われた、日本医史学会で9代道治は「石﨑家の医療史」のタイトルで発表を行いました。2016年には同名で小冊子を作成。また2019年壬生町歴史民俗資料館での企画展(石﨑家史料も多数出品)展示準備の際の調査では新史料も発見。保存作業のため、史料整理を行いましたが、また新たに見えてくるものがありました。2016の小冊子をより完全な形に残すべく2019年から本誌制作を開始して現在に至りました。


あらすじ

 

 壬生の石﨑家は260年前の明和元年(江戸時代中期)に、初代が壬生藩鳥居家の藩医であったという記録から始まり、現在の当主9代は眼科医院を開業中。10代も眼科医として研鑽中です。

 

 遡れば、瀬戸内水軍越智姓河野氏の一族で、宇都宮氏(伊予)と共に下野(上三川)に移住したといわれます。江戸時代中期、分家して壬生に移りました。初代寿見、2代正儉、3代正儉には壬生藩医としての記録が残っています。

 

 壬生石﨑家4代正達の時代、壬生藩主がおこなった蘭学振興政策の医療分野では藩医の正達や齋藤玄昌を江戸に遊学させ、壬生に戻った天保11年(1840) この二人を会主として人体解剖を行いました。

【解体正図】を実物大で掲載。

 

 5代誠庵(せいあん)(旧姓松本)は藤森弘庵のもとで学び、石﨑家に入ります。そして水戸弘道館で本間玄調に学びますが、このとき書かれた、原忠敬(原市之進:徳川慶喜の側近)、本間玄調、加藤有隣、綿引東海による6枚の書(詩)を本誌に掲載しました。水戸より帰藩すると藩主 鳥居忠宝(ただとみ)の侍講にも抜擢され大坂加番には医師として参加。この前後の藩内の事件、尊攘佐幕派争い、水戸天狗党の事件により壬生藩脱出を余儀なくされますが、翌年尾張藩に仕官(この頃は松本省庵)、磅礴(ほうはく)隊の長となり功績を上げます。また尾張藩の推挙を受け新政府高官(司法)(この頃は松本暢)になり、江藤新平や玉乃世履、徳川慶勝、松平慶永、木戸孝允との交流もありました。退官後は、渋沢栄一、後藤象二郎などと関係していました。

 

 6代鼎吾(ていご)は4代 正達の甥で、剣士・松本五郎兵衛の次男(誠庵の妻の弟)。誠庵の去った後を継いで石﨑家に入りました。東京医学校(大学東校)、松本順の蘭疇舎に学び、【函館医学校】では御雇外国人の米国人医師スチュアート・エルドリッジに学びました。【当時の写真、講義録】を本誌に掲載しています。帰郷後、明治10年【西南戦争】に従軍しました。このとき鼎吾が書いた【戦中日誌】があります。これにより西南戦争において、それまで知られていなかった【別働第三旅団】の存在と行動が明らかになりました。九州より戻ると、東京でコレラの検疫や治療。その後壬生へ帰郷【賛成医院】を開業。すぐに栃木県でもコレラ流行の対応を行いました。地元医師会の結成、自由民権運動や議員活動も行います。明治26年県を代表して【第9回医科大学国家医学講習科】を受講。この時の講義録も残っています。

 

 7代楚治(たかじ)(旧姓増山)は東北大学医学部の前身、宮城県の第二高等学校医学部医学科に入学。鼎吾の長女に婿入り。第二高等学校医学部改め、仙台医学専門学校医学科の第一回卒業生になりました(講義ノート掲載)。その後、一年志願兵として入営(史料掲載)。続いて宮城病院医員、東京帝国大学医科大学附属医院に勤め、明治37年(1904)日露戦争に出征し【日露戦争出征日記】を残しています(日誌内容、関連史料掲載)。退役後『医術開業試験附属永楽病院』に勤務ののち壬生に開業。特別大演習時には石﨑家が「日本赤十字社支部臨時救護所」になりました。大正8年(1919)より昭和37年(1962)まで学校医も務め地域に根ざした医療を行いました。

 

 8代達(たつし)東京帝国大学医学部医学科卒業。招集に応じ日中戦争〜太平洋戦争に軍医として従軍しました。戦後、東京大学内科物理療法学教室に入り【寄生虫学とアレルギー学】の研究を始めました。在籍中に【牧野富太郎】博士の晩年の主治医を務めました(手紙や写真掲載)。留学を経て昭和30年代、国立予防衛生研究所寄生虫部室長になり腸管寄生虫疾患撲滅に尽力、それまでなかった皮膚反応の診断基準【石﨑の判定基準】を作り、この功績で小泉賞を受賞。昭和50年(1975)、壬生町の獨協医科大学に日本で初めて「アレルギー内科」が開設され、その教授に就任。

 

 8代妻 百合子 東邦大学医学部の前身である帝国女子医学薬学専門学校卒。達と結婚、板橋区で眼科(石﨑医院)を開業。昭和55年(1980)【カンボジア難民救済医療団】第三次派遣に獨協医科大学チームとして参加しました。当時の手紙や視察に行った達のレポートなどから本誌の記事を作成しました。また現在は見られないトラコーマ擦過器を掲載。

 

 9代道治(みちはる)獨協医科大学第一期卒業。父の専門であるアレルギーと母の眼科を生かした眼科でアレルギーの研究を始め、医学博士授与後、カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校【プロクター研究所】へ留学。獨協医科大学講師、助教授就任。平成13年(2001)【石﨑眼科を開業】現在に至ります。

 今回、監修・著作(共著)した本誌完成。

 

 10代正道(まさみち)獨協医科大学を卒業。令和4年(2022)臨床研修医を経て獨協医科大学眼科に入局しました。


 共著者で発行者の阿美智篤(あみ ともあつ)は石﨑家長屋門で育った写真店の息子。日本大学芸術学部写真学科卒、東京で3年の印刷会社勤務と20年以上にわたり出版社などでのフリーカメラマン経験を積み壬生に帰郷。現在もフリーカメラマンおよび写真店「しゃしんやあみ」を営業中。撮影、写真関連、印刷関連事業を行い、近年動画作成もしています。個人的にYouTubeチャンネル「壬生図鑑」も制作しています。

 

 2012年に「石﨑家の医療史」発表・展示に関わったところから石﨑家の歴史研究が始まりました。「石﨑家の医療史」としてまとめ後世に残すことは、石﨑氏の希望です。しかし、史料の整理研究の中で、これらの内容は、広く公開することにも大きな意味があると切に思い本誌の制作活動を継続してきました。

 

 本誌内でお見せできなかった他の部分や別の史料も撮影して画像を保存してあります。